院長プロフィール
トシオとイクミの俊カイロプラクティック院の院長の簡単な紹介です。
地元は吹田市千里丘
院のある吹田市千里丘が地元です。
- 千里丘学園幼稚園(吹田市)
- 山田第二小学校(吹田市)
- 千里丘中学校(吹田市)
- 北千里高校(吹田市)
- 関西大学:総合情報学部(高槻市)
- 関西大学大学院:社会情報学専攻(高槻市)
関西大学は吹田にありますが、僕の学部だけ「高槻の山の上」にありました。空気と景色なら誰にも負けない場所で情報学を学んでいました。大学院は研究室に教授が4人、しかも全員が民間出身という「修羅の国」だったのでとても楽しかったです。
就職は名古屋のベンチャー
大学院時代にニュージーランドへの1年間のインターンシップを経て帰国。そのまま「遅すぎる就職戦線」への参加。
結局、受けたのは「外資系」と「ベンチャー系」ばかり。大手企業はもうすでに終わっていました。そして名古屋のベンチャー企業に無事就職。
「金は要らんから社長と働かせてほしい」
後で聞いたらこんな事言う就活生は僕だけだったらしいです。わーいわーい。
楽しすぎた18時間労働
今なら真っ黒なブラックなんでしょうけど、仕事を覚えたての頃って本当に楽しいんですよね。売り上げも頑張るだけ上がりますし。なので、楽しんで働いていました。朝から晩まで。「中村君っていつ来てもいるよね」と言われるのが楽しかった時代です。
会社はコールセンターも併設されており、実質不夜城でしたから余計に働きやすかったのだと思います。会社は入社した年に東証マザーズに上場、勢いの溢れるベンチャーの空気を実感できたのは幸運でした。
そしてあいつがやってきた
そんなこんなで働いていたある日、「あいつ」が僕を迎えに来ました。
ヘルニアという名の生き地獄
布団から起き上がろうとすると
ビリビリビリビリビリビリ!!!!!!
背中を伸ばそうとした瞬間にお尻から太腿の裏にかけて走る「何か」
それが神経痛だとわかったのは暫くしてからでした。
僕の日常はその時壊れました。
寝たきり×手術宣告×カイロ
人生で初めての神経痛を20代で経験した訳ですが、
- 1ヵ月の寝たきり生活
- 手術宣告と後遺症の宣告
- 有名整骨院や鍼灸院での通院地獄
僕はこの3つに打ちのめされ「心が壊れかけ」になっていました。
- いつまで続くんだろう
- 本当にこれ、治るのかな
- ああ、俺の人生終わったわ
神経痛は痛みや痺れ以上に「孤独感」と「絶望感」を強めます。僕はもう半ば復帰を諦めていました。パラリンピックなら何ができるかなと考えていたくらいです。
そんな時、大阪のカイロプラクティック院を紹介されました。「試す価値はあると思うよ」と。どうせ手術しか無いなら「一か八かだ」と僕は飛び込みました。「下手したら骨折られるのか」と半ばやけくそ気味に。
そして復活しました。
これが1人目の師匠との出会いです。
「この先生の技術、施術を1代で終わらせちゃダメだ」
患者と治療家を繋ぐ為の会社を立ち上げる一方で、3年かけて弟子入りを許してもらい、その技術と哲学を学びました。その後、会社を通して繋がった「格が違う」と感じた施術家にも教えを請い、師匠は3人となりました。
そして吹田市千里丘に俊カイロが生まれました。
3人の師匠と出会い、その技術と哲学を学び、やっとここまで来ることができました。
「あの時の自分と同じ状況で悩む人の為に」この院を作り上げたのです。
僕は偶然、師匠と出会う事ができました。でも、今もなお迷っている人がいます。その人の為にトシオとイクミの俊カイロプラクティック院は産声をあげました。
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